最近、SNSを眺めていると、「冷笑」という言葉が目に入ることが増えた。
誰かが何かを頑張っていれば「意識高い系」と言われる。
楽しそうな写真を載せれば「承認欲求が強そう」と言われる。
何かを好きだと話せば、「そこまでハマる?」と笑われる。
少し前なら、ただ「楽しそうだな」で終わっていたようなものにも、いつの間にか理由がつけられている。
承認欲求だとか、自己顕示欲だとか。
そういう言葉を見ていると、最近は人を冷めた目で見る人が増えたのかな、と思う。
けれど、ふと昔のことを思い出す。
そういえば、子どもの頃にも似たようなことはあった。
むしろ私の記憶では、今よりずっと周りの目を気にしていた。
それなら、いったい何が変わったのだろう。
「目立ちたがり屋」という言葉
小学生の頃、クラスの中で目立つ子がいた。
授業中によく手を挙げる子。
いつも大きな声で話している子。
みんなの前に出ることを嫌がらない子。
そういう子達が、「目立ちたがり屋だよね」と言われることがあった。
本人が本当に目立ちたかったのかは分からない。
ただ、周りからはそう見えた。
誰か一人について、みんなで何かを言うこともあった。
その場にいる人たちの中で、「あの子はこういう子」というイメージができていく。
今思えば、子どもの集団にはそういうところがあった。
みんなと同じでいることが安心だったり、少し違うことをすると妙に目についたりする。
私自身も、周りからどう見られているかを気にしていた。
変なことを言わないようにする。
浮かないようにする。
目立ちすぎないようにする。
当時はそれが特別なことだと思っていなかったけれど、振り返ってみると、かなり周囲の視線を意識していた気がする。
だから、「目立っている人を少し冷めた目で見る」という感覚自体は、別に最近生まれたものではないのかもしれない。
昔は、それを「目立ちたがり屋」と呼んでいただけなのかもしれない。
インターネットは、知らない人まで近くにする
昔と今で大きく違うのは、やっぱりインターネットだと思う。
子どもの頃なら、自分の学校や友達のことくらいしか知らない。
誰かが目立っていても、その人を見ているのは、同じ教室にいる人たちだった。
今は違う。
スマホを開けば、知らない人の生活が流れてくる。
どこかへ旅行した人。
新しい服を買った人。
恋人と過ごしている人。
仕事について語っている人。
趣味について熱く話している人。
自分の生活とは何の関係もない人たちの姿が、毎日のように目に入ってくる。
しかも、見えるのは投稿だけではない。
その投稿を見た人たちが、何を思ったのかまで見えてしまう。
「素敵」
「楽しそう」
という言葉の隣に、
「承認欲求すごい」
「目立ちたいだけ」
「必死だな」
という言葉が並んでいる。
昔なら、その人の知らないところで交わされていたかもしれない会話まで、今は画面の中に残る。
冷笑する人が増えたのかどうかは分からない。
ただ、冷笑している人の存在が、以前よりずっと見つけやすくなった。
それだけでも、ずいぶん違う。
「承認欲求」という言葉
SNSを見ていると、「承認欲求」という言葉は本当によく出てくる。
何かを投稿していれば、
「人に見てほしいんだろうな」
という意味で使われる。
たしかに、誰かに見てもらいたいという気持ちは、SNSと切り離せないのかもしれない。
でも、写真を載せる理由なんて、そんなに単純でもない。
思い出として残したい。
友達に見せたい。
自分が気に入ったから載せたい。
なんとなく投稿したい。
いろんな理由がある。
それでも、知らない人の投稿を見て「承認欲求」という言葉を置くと、なんとなく分かったような気になる。
昔の「目立ちたがり屋」という言葉と、少し似ている気がする。
「あの人は目立ちたいんだ」と決めてしまえば、その人がなぜそんなことをしているのかを考えなくても済む。
本当のところは、本人にしか分からないのに。
昔の「みんな」と、今の「みんな」
子どもの頃の「みんな」は、せいぜいクラスの30人くらいだった。
その中でどう見られているかが気になる。
誰かと仲が良いとか、誰が人気だとか、誰がちょっと浮いているとか。
小さな世界の中で、人の目は案外大きかった。
今は、その「みんな」がずっと大きくなった。
SNSに投稿すれば、誰が見ているのか分からない。
数人かもしれないし、何千人かもしれない。
そして、その中の誰かが何かを言えば、それをまた別の誰かが見る。
一人の感想が、別の人の感想を呼ぶ。
気づけば、一つの投稿を囲むように、たくさんの人の視線が集まっている。
昔の教室にも、似たようなことはあった。
ただ、その教室には壁があった。
SNSには、ほとんど壁がない。
そこが大きな違いなのかもしれない。
冷笑する側だけが変わったわけではない
そして、変わったのは「誰かを見る側」だけではないと思う。
見られる側も、以前よりずっと視線を意識しやすくなった。
何かを投稿するとき、
「これ、自慢だと思われないかな」
「承認欲求って思われたら嫌だな」
「変な人だと思われないかな」
と考える。
実際に誰かから何か言われたわけでもないのに、投稿する前からその反応を想像してしまう。
昔なら、「クラスのみんなにどう思われるか」を気にしていた。
今はそこに、顔も知らない人たちまで加わった。
しかも、その人たちが何を言うかは分からない。
そう考えると、SNSで感じる独特な空気は、冷笑する人が増えたことだけでは説明できない気がする。
見る人が増えたこと。
見られていることを意識するようになったこと。
そして、その両方が同じ場所に集まっていること。
その三つが重なって、今のSNSの空気をつくっているのかもしれない。
冷笑は、昔より増えたのか
結局、本当に冷笑する人が増えたのかは分からない。
昔のことを思い出しても、子どもの集団には子どもの集団なりの冷たさがあった。
目立つ人がいれば、何か言われる。
少し違うことをすれば、目につく。
誰かについての話が、いつの間にかみんなの共通認識になっている。
今と比べて、そこまで違わない部分もある。
ただ、昔はその光景を見ることができる範囲が狭かった。
今は、世界中のどこかで誰かが誰かについて話している。
それが自分のスマホに流れてくる。
だから「冷笑する人が増えた」と感じるのも、少し分かる。
実際に増えたのかもしれない。
でも、もしかすると、昔からあったものが見えるようになっただけなのかもしれない。
小学生の頃の教室で交わされていた「目立ちたがり屋」という言葉と、SNSで見かける「承認欲求」という言葉。
形は少し変わっているけれど、その奥にあるものは、案外そんなに変わっていないのかもしれない。
昔は、教室の中だけだった。
今は、画面の向こうまで続いている。
そう考えると、「冷笑する人が増えた」のか、それとも「冷笑が見えるようになった」のか。
その境目は、思っていたより曖昧なのかもしれない。